2012年5月17日 (木)

大学の英語教員:混迷の英語教育の根本原因を探る


 

『週刊現代』に載っていたことは残念ながら本当である。

以下がその引用である。

 

…冗談のような話だが、今年8月31日から3日間にわたって開催された大学英語教育学会創立50周年記念の国際会議ではこんな場面があった。なお、同学会は日本の大学での英語教育に携わる約3000人の会員が所属している。通常の会議では会員たちの丁々発止のやりとりがあるのに、今年に限っては英語での研究発表に対して、ネイティブ以外からはわずかな質問が出ず「沈黙する学会」になってしまった。その理由は、今年から質疑応用を英語で行うようになったため。

 

記事は同学会に出席した某大学教授のコメントをのせている。

 

「大学の英語教員ですらこの有様。日本人がいかに英語をつかいこなすことが難しいかを象徴しています。…」(平成2311月5日号 71頁)

 

私自身は日本コミュニケーション学会会長で基本的には外の人間であったが、長い間上記学会の会員であったし、多くの同業者を見てきて、まさにその通りであるといわざるをえない。ある外国人教員がこぼしていた。同僚の研究室が目と鼻の先にある。だから直接口頭で英語でコミュニケートすればいいのに、わざわざメールで言ってくる。報告事項ならいざしらず考えを煮詰めていくなどメールではできないと。多くの教員は会議でも英語で議論やスピーチはできない。海外での研究発表もパワーポイントを使って用意された原稿を隠れるように読み上げる程度。フロアーからひたすら質問が来ないのを祈っている。発表途中にフロアーから質問が飛んで来たり、それに対してまた別の声が上がって活発な三つ巴のコミュニケーションが展開しかけることがある。このとき、発表者として参加し取り仕切り、にわかディベートの結果を受け、発表が修正、深化された形で終えていけるとしたらそれはコミュニケーションの醍醐味であると思うのだが、これらははっきりいって望むのは難しい。しかし強調したいとことはこの学会はいわゆる話せない英語に反旗を翻して立ち上がった、意識は進歩的なほうの大学教師の集まりであったはずであるということである。

20数年前、この学会が外国の学会と共催で、大会を国外で行ったことがある。今度はときの日本側の会長の挨拶である。その挨拶の英語が日本の代表というようなものからは程遠いため、私を含め、居合わせた多くの日本の学者たちが日本の恥だとばかり街に繰り出し、ある者はヤケ酒を、ある者は悲しい酒を飲んだという事実がある。

世間はそんなことは知らない。偏差値の高い大学の先生だからそんなことはあるまいと。

 

根本原因:母学問の現段階における構造的欠陥 

英語が話せない大学英語教授を生んでいる根本原因は何か。

まず一般的には、これは単なるスピーキングの能力だけの問題だと考えるであろうがそれは違う。

英語が話せない大学英語教員の原因は、彼らの受信能力に問題があるからである。特に読みに問題があるからである。これは意外な発言受け取られるはずだ。リスニングはともかくも、読みだけは彼らのレゾンデートル、最後の砦だったはずではないかと。なるほど通常の意味ではそうかもしれない。しかしそのリーディングは”人が住んでいないリーディング”もっといえば文章の“語り手が不在リーディング”、“文字の塊としてのリーディング”“自分はかかわらないリーディング”であった。受信が弱いから入力が弱まる。入力が貧弱だから、豊かなる発信ができない。至極単純な理屈である。

では、なぜリーディングが弱いか。そここそが問題である。それはこれらの大学英語教員の多くが専門としている母なる学問の言語学、応用言語学、そしてその流れを汲むEFL(外国語としての英語教授法学)の根本にある言語観にかかわっていると私はみてきた。

言語観には大きく言語ラング観言語パロール観の2つがある。言語ラング観とは、言語を使用者と切り離した「制度」として捉えるものである。それは「意味」の捉え方に特徴がある。たとえば、「学生」ということばの場合、この意味は辞書に載っている通りの「学生」を指し示すとする言語観である。すなわち言葉の意味とはその言葉の中に決定済のものとして内在しているという言語観といっていい。一方言語パロール観の方は、私の母親などが『伊豆の踊子』などの影響もあって目を輝かせて、「学生」というときは,紛れもなく「真実を追求使用とする若者」という意味を付加しているし、逆に、私などが眉間にしをわ寄せていうときの「学生」は、イコール「人生の休日を楽しんでいるフウテンども」という意味を付加しているとする言語観である。つまり意味というものは使用者、あるいは語り手がある状況の中で与えているものだという考え方である。単語だけではない。段落、挿話すべて、それがそこに語り手によってある意味や機能を与えられると考える。

内在する意味と与えられる意味の両方の中間にその言葉の使用時の真実があるのだが、言語学はラング観への偏りすぎであってきた。スイスの著名な言語学者フェルナンド ド ソシュールが指摘していたが。だが、今日までその是正が果たされてこなかった。

では偏重から抜け出られない原因はなにかというと、印刷技術の発達、そして後年の機械文明の発達による二項対立、多極分立の思考が根底とかかわっていると考えるが、現代の我々にとっての関心は、大学英語教員がラング偏重が是正できないでいるということの不都合である。偏重しているということは、意味を与える語り手という存在に対する意識が希薄ということで、次のような不都合を生む。

1)「読む英語」、「話す英語」という異なる英語が「制度」として存在していて、話す英語なるものを攻略すれば話せるようさせられるはずだという妄想にとりつかれる。

2)膨大なる文字メディの英語―俗にいう「読む英語」とわれるものーそれが実は背後に語り手がいる生きたトーク(parole)であると感覚的に捉えられないこと。大学の購読授業の授業などではあくまでもそこから思想を掴み取ればそれでおしまいで、ストーリーとか思想は扱うとはいうものの、読み物が即、語り手のいる生きた語りとして捉えるという方向には関心がいかない。このとばっちりを激しく受け今や息も絶え絶えなのは詩、散文、ドラマなどの文学である。それどころか語学教育に関してはズブの素人の世間やマスコミと一緒になって、文学作品などは話す英語の敵であるかのようなことをいう。そして挙句の果ては、話す英語は話す英語という狭いプールの中のみに水の動きと泳ぎ方を学べる特殊芸ぐらいに考えてしまう。(さすが大学英語教育学会の教員たちは話せない英語教育を是正すべく立ち上がった経緯があるので知らぬ顔はできないが、そうでない教員の多くは、そんなにしゃべりたければ会話学校に行け、海外語学研修にいけばいいと思っている。何のことはない。その程度で[つまり別口の英語]の練習でできるようになると思っているところが結局はランン観偏重なのである。)

文学は表現の粋であり、これら、表現の大海に向かい、四海の逆巻く大波や、深海魚の怪しい動きや、眩い光を発する熱帯魚、とび魚のように動きなどを自らの内に捉え、自らの動きに取り込むことはしないし、させようとはしない。自らの幸せを、自らの手で葬ってしまった哀れなる女の話は歌の世界のことだけではないのである。

3) 語り手に同化してこそ見えるものまでシャットアウトしてしまう傾向になってしまう。目の不自由な人の気持ちを目明きが観念的にしか理解しないことに似ている。目隠しをして介添え役をたて生活をしてみる同化訓練が受けて、はじめて身体の動きが制限されてくるかが体感されたり、人のやさしさが、つめたさが心の目で見えてきたという認識過程は、言語素材に対しても可能であるなどとは思いもつかない。ましてや語り手に、同化、異化を繰り返し螺旋的に観念的理解と情緒的理解の間の往復作業により弁証法的に理解を深めていくという体験はさらに考えにくい。そして話せるようになるための豊かな言語入力が、上のような深い理解を土台にした語り手の立場に立った音読、さらにはその語り手の立ち位置を移動させてみるモード転換のめくるめく体験の末に訪れるなどということはラング偏重派の経験則には全くと言っていいほどない。

 

「河原乞食」の偏見

うえの3)は同化,異化、立ち位置移動などは実際に身体を動かすことを要求するが、頭対身体という二項対立意識にあって頭だけで処理されてしまうが、これに加うるに日本には芸人を蔑む「河原乞食」と呼んで蔑む伝統がある。そして演劇的なものを連想する。ますます身体を動かしたがらない。それどころか肉体というものを一段いまわしいもの、崇高なるアカデミズムに対する冒涜という偏見をもっている節すらある。肉の身を持ってこの世に生まれてきて、引力や重力の制約を微妙に受けながら物事を見たり感じ、修得してきた人間が、認識の根底にある肉体をそぎ落とし頭だけですべて勝負しようとするのはどう考えてみてもおかしい。

本題の英語の発信力の元は豊かな入力であるのだが、こうした芸ごとの基本からして、ここにも河原乞食の偏見が邪魔しているのか彼らの経験則にはなかったようである。それが証拠にS.クラッシェンという学者が出てきて入力理論を述べたときの騒ぎようといったら、私などは何を今更と思ったものである。

しかしこのクラッシェンとても、他聴、多読、そしてわずかばかりの音読からの入力で止まり、私が最も重要と主張し、広めようとしてきたOral Interepretation(音声解釈表現)という精読とモード転換を通しての強力入力にまでは至っていない。

大学の英語教員にも学識も豊かなら英語も使いこなす者もいる。しかしそれはこの人たちが、ラング観「だから」ではなく、ラング観偏重の風潮「にもかかわらず」、その偏りに流されることなく、個人的に努力し、むしろラング、パロールを相互補完的に働かせて自らを磨いてきたということにしかすぎないと私は考えている。問題状況は少しも軽減されていない。

 

ではなぜそれ社会的に問題なのか

では大学の英語の教授たちが英語を話すことが苦手だと社会的にどんな弊害があるのか。それは冒頭の学会の場合の場合は特に、会長はじめこの学会の重鎮たちが中心となって、英語に関しては素人の文科省に影響をあたえ、色々な教育政策を打ってきているということである。勘繰るならば、どうやら自分の英語が思うようにならないので、「英語で授業をしたらうまくいくのではないのだろうか」「普通英語とは別口にオーラル・コミュニケーションという科目を導入すれば皆、英語力があがるのではないか」、「外国人を多量導入すれば皆英語などは使えるようになるのではないか」、「英語で授業をすればよくなるのではないか」、「小学校からはじめたらうまくいくのではないか」などの健気にも愚かな妄想を抱き、政策化することに手を貸してしまってきるのではないかということである。なかでも「オーラル・コミュニケーション」で、これが導入された頃からTOEFLのスコアなどは落ち始めている。<だいたい「読む英語」と「オーラルイングリッシュ」なんてないのだ、英語はそもそもがオーラルなのだ>私などは学会内部から何度言ってきたことか。

そういいたわけでラング偏重は教育政策となって現場を悩ます。しかしもっとも深刻なことがある。それは現場の中高の英語教員の多くの身体には、親方教授たちからもらったラング観偏重の血が流れているという厳粛なる事実である。もし、現在英語で苦労しているとしたら当然すぎることで、まさに、“親のいんがが子にむく~い~♪”なのである。

 

中学・高校の英語教師へ!

  ――豊かなる言語入力を確保するために、リーダー、受験参考書の長文、TOEIC問題集の英文、すべては「食材」として取り込むために、Interpretive Reading(=Oral Interpretation)という訓練を一定期間は積むことがから始めたい。そして詩などの文学作品もだ。

ラング偏重の英語教育から抜け出て、めくるめくコミュニケーションも受験英語の区分もない世界を経験してもらうために!

 

与えられた教材を可もなく、不可もなくこなしていくだけならば、ことさらに時間をつくって自己研鑽など考える必要はない。どうかと思われる英語音声であろうと、ALTとのコミュニケーションは話すのが得意そうな教員に任せればいい。それに、外人教師は基本的には気の弱そうなのが回されてくるからボソボソと言葉をかわしたら、“Oh I see” “Huh, huh”といって追従笑いをしていれば済む。ギラギラして議論を吹きかけてくような外国人は税関はパスしても教育委員会でははじかれているから安心だ。

そもそも高度な英語力などなくても、別にそれによって僻地の学校に飛ばされることもない。教え方など読んで訳しているだけでも生徒どうにか大学に合格してくれる。その後は知ったことではない。

ただでも課外活動や父兄面談、遠足付添、などで週末も忙殺されるほどいそがしい。飲み屋に集まって偏差値がどうの、どこどこへ何人推薦で入ったとか所詮は受験屋であるというせせこましさを周囲にプンプンと漂わせていても、喫煙と違って特に文句はでるわけでもないから気にすることはない。なにせ定年まで生活は安泰だ。

 ところが当然のことながら、もっと向上欲のある教師も、どの学校にも多くはないがいる。しかし、このいわゆるいい方の教師たち(the better halves)が最近ちょっとおかしい。

 生徒を惹きつけようとして小手先のことにしか精を出さない。やっていることがチマチマとしている。

 

魅力のある授業、生徒を退屈させない方法を勘違いしている。

教員自身が学習者となって、教員自身が豊かな原体験をつみ、美しく、息の長い英語を話せる、その時こぼれ出るものが生徒を惹きつける。あくなき追求をしている背中を見て生徒は説得されていくのではと思っている。

 

学習者のレベルに関係はない。つまり中学校であろうと、高校であろうともである。生徒が荒れて授業ができない学校であろうともである。英語教員がありあまるほどの表現力があればあるほど、それが生徒を惹きつける授業となって現れ出てくるはずである。私はそう信じている。

 

色々な提案があるが、ただ、ひとつだけ、そこから色々なことがひらけていく訓練である Interpretive Readingの扉を開いていただきたい。

 

豊かなる言語入力を確保するために、リーダー、受験参考書の長文、TOEIC問題集の英文、すべては「食材」として取り込むために、Interpretive Reading(=Oral Interpretation)という訓練を一定期間は積むことがから始めたい。そして詩などの文学作品もだ。

ラング偏重の英語教育から抜け出て、めくるめくコミュニケーションも受験英語の区分もない世界を経験してもらうために!

ようにあくなき追求をしているべきである。

 

 

 

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